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飛輪海小説『ステップアップ!』第二十五話~ヒロ篇

     第二十五話「珈琲の香り、月夜の夢」~ヒロ篇

翌日から、もう私の仕事は山積みだった。  

 事務所での引き継ぎから、これまでお世話になった人やショップへのあいさつ回り、その他にもマーキーがいろいろ気を配ってくれたおかげで、すべてがスムーズにすすんだ。

そして呉尊不在のマンションで荷物をまとめたり、元のアパートへの引越しの手配は、亦儒とアミンが力になってくれた。

極秘の婚約だったために、ほとんど、はめることのなかったエンゲージリングと、マンションの合い鍵は郵送することにした。

亞綸はこの数日、一度も事務所に現れなかった。 大東は事務所最後の日、ダンボール一箱分の荷物を、タクシーまで運んで見送ってくれた。 

「ヒロ、頑張れよ。 呉尊の考えることはオレにはよく理解できないけど、応援してるからさ。」

「うん。 大東は大東らしく頑張って! そしたらいつかきっといい人が現れるわよ!」

「いいから早く行けよ。 じゃあな!」

 大東はそれだけ言うと、タクシーのドアを閉めて、一度も振り返らずに事務所に戻っていった。

 明日からは林志玲の仕事が始まる。 エージェントと期間限定の契約を結び、すぐに打ち合わせに入ることになっていた。

 忙しければ忙しいほど気が紛れる。 不思議と私は今回のことで一度も泣いていない。 悲しいとか、寂しいとか、思う余裕もないのかもしれない。 そんな感情を持ち合わせていることさえ、今はわからないでいた。

*    *    *

 今日はなんだか疲れたな・・・。 打ち合わせが長引き、新しいスタッフと食事に行くことになってしまったのだ。

林志玲との仕事に高揚感を期待しすぎていたのかもしれない。 ただ淡々とこなしていただけの自分がいた。 こんなに無感情になっている自分のことさえ何も感じない。

 もうすぐアパートに着くという頃に、タクシーから夜空を見上げると、いつもよりひときわ明るく丸い月が浮かんでいた。

「満月かな・・・。」

 無意識につぶやいていた。

「満月ですよ、お客さん。 満月の夜には、時々とんでもない客を拾うことがあってね~。

時々肝を冷やすこともありますよ。 満月には犯罪が多発するとか言いますからね。」

「あの、戻ってもらってもいいですか? 行天宮まで・・・。」

 今夜が満月だったなんて・・・。 私はあの約束を思い出してしまった。

「行天宮ですか? もうすぐ目的地ってときに、こりゃまたここから正反対じゃないですか。 まあ、こっちとしては客も拾えそうないい場所までですから、ありがたいですけどね。」

       

           *    *    *

 行天宮の前でタクシーを降り、月明かりの中、ただ使命感だけであの家に向かっている。 阿旭に会いたいという気持ちからではない。 あの場所へ行かなければいけないという絶対的な使命感・・・。 

鉄の門扉をゆっくり開けると、一ヶ月前とは違ってきしむ音がしない。 油を差してくれたんだ。 玄関の鍵は開いていた。 でも灯りはついていない。 電気をつけずにそのまま、すぐ右側にあるリビングに入っていく。  そして私は戸口で立ち止まり、部屋の中を見渡した。 月明かりで部屋はとても明るかった。 そして家具やカーペット、その他のほとんどの物が運び出されたことを知る。 一ヶ月前は、阿旭と暮らしていたときのままだったのに、今、私の目の前にあるこの部屋には、長いすと、小さなテーブルしか残されていなかった。 テーブルの上にはダンボール箱が一つ置かれていた。

部屋に阿旭の姿はない。

私は長いすに腰掛けて、がらんとしてしまった部屋を見渡す。 でも今は阿旭との思い出に対して、感傷的なものは何も沸いてはこない。 

この長いすは清の時代のアンティークで、私と阿旭のお気に入りだった。 それなのに私が一度、阿旭がいれてくれたコーヒーをこぼしてしまったことがあった。 阿旭は、「コーヒーのいい香りがするね。」と、文句の一つも言わないでくれた。 

 いつの間にか少し感傷的になってしまっている・・・。 でも今は何も考えたくない。 

履いていたミュールをぬいで、長いすに横になる。 そうすると月がよく見えた。 月の光がまぶしすぎて目を閉じる。 コーヒーの香りがまだ残っているみたい・・・。 なんだか安心するな・・・。  私はいつの間にか眠りに堕ちていった・・・。

足音が聞こえる。 床に響く靴の音。 懐かしい響き・・・阿旭だ。 夢なのか現実なのかわからない。 体が動かないし目を開けることすらできない。 それなのに阿旭の様子が目で見てるみたいによくわかる。 いつか私がプレゼントしたシャツを着ている。 阿旭はそのシャツを脱いで、長いすの前で膝まづき、私にかけてくれた。 そして私の顔をみつめ、私の髪を触っている。 それから阿旭の手が私の頬のラインをゆっくりなで・・・親指で下唇を何度も確かめるようになぞっている。 それなのに、手の暖かさが伝わってこない。 夢だから? 

そして阿旭の顔が私の顔に近づいてきて・・・阿旭の唇が私の唇に重なった。 これはきっと夢にちがいないと思った。 これが現実であるはずがないから・・・。 

それまで無感情だった私の心臓が一度だけトクンとなった気がした。 それからどんどん鼓動が早くなり、しだいに唇に温もりを感じるようになる。 阿旭の唇だ・・・私はこの部屋で何度阿旭とのキスに胸を高鳴らせたかわからない・・・。

阿旭の唇が離れ、彼の気配が消えていった・・・。 そして私は深い眠りに堕ちていく・・・。

コーヒーの香りと懐かしい声で目が覚める。 

「ヒロエ、起こしてごめん。 ここで夜を明かすわけにはいかないだろ?」

「阿旭・・・」

 夢を見た気がする。 どんな夢だったかは思い出せない・・・。 

体を起こすと体にかけてあった何かが落ちる。 阿旭のシャツ? これって・・・。 私が昔プレゼントしたシャツだ。 白いコットンシャツに白の絹糸で刺繍がはいっている。 阿旭、まだ着てくれてたんだ。

「今何時?」

「九時過ぎだ。 コーヒーいれたんだけど飲む?」

「うん・・・。」

 私は長いすから立ち上がり、シャツを背もたれにかけて、出窓の“あの場所”から月を見上げる。

「今夜の月もきれいだ。」 

そのシャツを着た阿旭が隣に立ち、ソーサーにのせたコーヒーを私に差し出す。

「ありがとう。」

「待ちくたびれて眠ってしまったんだね。 すまなかった。 コーヒー豆を買いに行っていたんだ。 いつもの店が閉まっていて、少し足をのばしたんだ。」

「ううん、いいの。 ちょっと疲れてただけよ。」

「今日からだったね、林志玲の仕事。」

「知ってたの? やっぱり阿旭が動いてくれたからだったのね。」

「それは違うよ。 ヒロエの実力だ。 僕はただ・・・。」

 ただ何? 阿旭はなぜか言うのをためらっている。

「呉尊に頼んだだけだ。 ヒロエが以前ボクのスタイリストのアシスタントだったから力になってあげたいと話してね。」

「・・・何を頼んだの?」

「ヒロエには言わない約束なんだ。」

「お願い、教えて・・・。」

「・・・ヒロエの事務所側にうまく取り計らって欲しいと頼んだんだよ。 契約のこともあるだろうから。 林志玲にパーティーで会ったときの話もしたんだ。 ヒロエの才能を生かす場所は、今の事務所ではないと。 それと・・・。」

「それと・・・?」

「ヒロエの婚約者はどんな男なのか聞いたんだ。 仕事を理解して認めてくれる男なのか・・・。 ヒロエがどんなに仕事を続けたがっているかわかっているのかってね。」

「なんて・・・彼はなんて答えたの?」

「ヒロエの婚約者をよく知っているって言っていたよ。 自分からも相手に話をしてみると言ってくれた。」

 呉尊がそんなことを?・・・。

「ボクが余計なことをしてしまったのはよくわかっているよ。 でも、ヒロエの相手は仕事を許してくれたんだね?」

「・・・とても応援してくれてるわ・・・。」

「いい人なんだな・・・。 ヒロエは幸せなんだね?」

「・・・えぇ。」    

「・・・安心したよ。」

 阿旭はそう言うと残っていたコーヒーを飲み干してから、何か決心したように話し続ける。

「・・・この家を手放すことにしたんだ。」

 そうだろうと思っていたので驚きはしなかった。

「取り壊されるそうだ・・・もうかなりいたんでいたからね。」

「そう・・・。 じゃあちゃんとお別れしないと・・・。」

 私はいつも腰掛けていた出窓の“あの場所”を手で触りながら「今までありがとう、さようなら。」とつぶやいた。

 それから部屋の中をぐるりと一周して名残惜しむ。 そして戸口に立ち、離れたところからあの場所に立っている阿旭にむかって言う。

「阿旭、今までありがとう。 あなたに出会えて本当によかった。」

「ボクもだ。」

阿旭は月の光でシルエットになり、表情まではわからなかった。

「コーヒーおいしかったわ。 ごちそうさま。」

「よかった・・・、ちゃんと豆から挽いてサイホンでいれたのは二年ぶりだったんだ・・・。」

「私、もう帰るね・・・。」

「あぁ・・・。」

「さようなら。」

「さよなら・・・。」

榮星公園を、月を見ながら歩く。

やっと阿旭に、ちゃんと言えた。 「ありがとう。」と「さようなら。」を・・・。 二年もかかってしまったけど・・・。 阿旭もこれで気持ちが楽になるといいけど・・・。 仕事のことで呉尊や林志玲にはたらきかけてくれたのも、きっと私に対する自責の念からだと思う。

「あなた、ちょっといいかしら?」

誰もいないと思っていたのに、声をかけられ少しびっくりする。

初老の女性だった。  

「あなた、この一ヶ月ほどで、いろんなことが大きく変わってしまったわね。」

占い師? ここは占い横丁に近いから。 でも少し警戒してしまう。

「どんなことが変わったっていうんですか?」

「魂を分かつ女性と同じ運命をたどる・・・もう出会っているでしょう。 あなたたちは、生まれ育ったところが違う国でも、出会う運命でいたのだから。 そして二人は同じ時期に同じような出来事が起き、同じように苦しむけれど、同じように幸せな人生をたどる運命だった。」

 アミンのことを言っているのだと思った。 だけど・・・

「いいえ。 彼女は最高の幸せをつかんだけれど・・・私にのこされたのは仕事だけです。 同じなんかじゃないわ。」

 私が否定すると、占い師はため息をついてから言う。

「あなたは人の心を感じる力を持っているのに、自分に関することでその力を使えていないのね。 あなたを思って身をひいた男性たちの気持ちをちゃんと理解しきれていない。 だけどいつかその気持ちを理解し、信じ続ければ、あなたの幸福もおのずと訪れるでしょう。」

 身を引いた男性たち? 

呉尊が言っていたことの意味が少しわかった気がした。

“ヒロを幸せにできるのはボクじゃなかった”と言っていた呉尊。

阿旭の気持ちに気付いてしまったからだということ。

阿旭のほうが私を理解し、私を自由にできると呉尊は考えたの?

そうやって身を引くことが呉尊の愛し方なの?

私の気持ちなんておかまいなしに・・・

呉尊の気持ちも、阿旭の気持ちも、自分の気持ちでさえも、ありのままではない気がしてはがゆかった。

辺りを見回すと、占い師の姿がない。 

いったいなんの占いだったんだろう。 生年月日も、名前も聞かれていない。 手相も見せてないし顔だって月明かりでやっと見えるくらいだったのに・・・。

誰もいなくなった公園でなら、泣けるのかもしれない・・・。

今までだって、別に我慢していたわけではなかった。

ただ、今なら泣いてもいいと思った。

今なら素直に泣けるって・・・。

二人の私を思う気持ちに、今の私は心が押しつぶされそうだ。 

自分だけがつらいんじゃない。 呉尊も・・・阿旭だって・・・。 

涙があふれだす。

誰の胸も借りずに、一人で泣くことが、今の私には必要だった・・・。

   第二十六話「私たちの三年間」~リンク篇につづく・・・

 目次と登場人物~ヒロ&アミン篇

   目次と登場人物~大東&亞綸篇

   目次と登場人物~SP

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